回文の面白さの正体は何なのか

「娯楽性」と「パズル性」

例の記事の編集後記みたいなものです。

インターネット上に腐るほど存在するいわゆる「身内鯖」の一つで投稿された一年分の言葉遊びネタを集約しただけの記事がツイッターで500回以上RTされ、それまで月に2, 3回くらいしかアクセスされなかったブログ(それも恐らく知り合いのアクセス)にこの正月で4000人が訪れるという珍事が起きました。まるで初詣のときだけ賑う田舎の神社みたいですね。読んでくださり&拡散してくださりありがとうございます。盛り上がりを受けて狂人たちの士気も上がり、新年に入って既に150件以上の回文がスレに投稿されています。

RT先の反応や引用RTは割とガン見していたのですが、意外と回文って面白がられるんだな~という印象を受けました。というか界隈性が強いネタが多かったので(デスマリアなど)、そのあたりの文脈が共有されていなくても面白さが伝わるところに驚きを覚えました。つまりツイッターの反応を受けて、回文の面白さの正体を知りたくなったのです。

回文の面白さの正体

回文である前に「ただの文」である

ひとくちに「面白い」と日本語で言ったとき、その真意は大まかには娯楽としての面白さ(ファニー、ウケる、笑ってしまう)という意味と、知的好奇心をくすぐる面白さ(興味深い、ウィットに富んでいる、知的)という意味に分かれます。私が記事への反応を巡回していたとき目にした「面白い」という感想の意味は、それぞれが言及している作品によって異なっていました。具体的に言うと、『静岡の顔、逗子』はオモロくて『工藤も飲んだ、件の猛毒』はすごい。前者でめちゃくちゃウケても後者では爆笑はしない。後者でかなり感心しても前者では「おぉ~」とはならない。

ではこの二つの回文で何が違うかというと、そもそも全てが違うわけです。よく考えてみれば単純な話で、例の記事に載っている数多くの回文、いや、そもそも我々の回文スレに投稿されている全ての回文が、それぞれが回文である以前に「ただの文」なのです。つまり「ただの文」の時点で持っている要素が、根本的なオモロさであり、爆笑する所以であり、あるいはすごさであり、感心する所以であるのです。

では文意さえ面白ければいいのかというとそうではない。この、「ただの文」のままでは面白くないという点が肝です。『静岡の顔、逗子』が回文とかではない文(言葉遊び要素のない文章)だったらめちゃくちゃ爆笑するかというとそうではない。「ただの文」が実は回文であるという付加価値こそがこの「ただの文」を一気に面白くしています。そして例の記事に関していえば、この「実は回文である」という前提情報が記事を開いた時点で(記事タイトルや冒頭の文章、あるいはツイート文などによって)読者に既に認識されている。これによって、普段から回文や言葉遊びに触れないような人にとっても、回文を楽しむための環境が整っていたわけです。

この環境があるからこそ、字面が狂ってたり勢いがあったりする文章を屈託なく笑い飛ばすことができるわけですね……ガンギマリ練馬銀河ってなんだよ。爺世代が草草の草とか言ってたら嫌だろ。絵馬を食べるな。デスマリアと駆逐ばあさんの戦いは結局どうなったんだよ


ちなみにですが、家庭・暮らし部門の追記が長文になったのは、こういった前提のもとに楽しまれている背景がある上で、「回文でない作品」を回文として、あまつさえ部門最優秀賞として掲揚するという(大仰にいえば)裏切り行為を働いてしまったと気付いた焦りからです。また、このミスが許されたら他で雰囲気回文部門を立てている意味もなくなるという責任感もありました。ド深夜のうちに『人生知らん全裸新生児』の処遇を決め、釈明で使えそうな回文を考え、結局何も思い付かなかったのでスレで既出だったものを使いました。

付加価値が「回文」である意味

ところで「ただの文」を面白くする付加価値には、回文以外にもいくつもの種類があります。いわゆるおやじギャグや、アナグラム、パングラム、畳文などなど、その他にも多種多様な技法・遊びがありますし、短歌、俳句や川柳などは国語の授業の単元という以前に遥かに古い時代に発生した言葉遊びです。あるいは押韻や早口言葉も言葉遊びに含めることができます。なんにせよこれだけ種類があるので、言葉遊びを用いるというのは文章を面白くする効率的な手段といえるでしょう。

※畳文の参考文献: 【言葉遊び空論12】完全ダジャレ・畳文|にぅま - note


それ以外にも、というよりインターネット上ではそれより圧倒的に「ただの文」を面白くする手法が広まっており、それが「語録」です。あるいは「ミーム」でもあります。これらはSNS上で遍く認知されているケースもありますが、非常に界隈性・内輪ノリ感が強いものもあり、火力は高いが使う場面は限られるというケースが多いと思います。現実で友人と食事をしていてカニのあんかけチャーハンが出てきて「ホイホイ♂チャーハン」「蟹になりたいね」とか言っても誰にも伝わらないのはそれらが「語録」であって、界隈性が強いからであり、周囲の人間がその「ただの文」に付加価値を乗せるための前提知識を持たないためです。つまり「ホイホイ♂チャーハン」も「蟹になりたいね」もその場に限っては「ただの文」となってしまい、加えてその文章の内容が謎だし変なイントネーションで言っているしで更に「よくわからん変な文言」に成り下がり、それを発言した私は「よくわからん変な文言をつぶやく不気味なやつ」になります。やめてそんな目で見ないで、ごめん変なこと言って……。

閑話休題、今回のケースでその付加価値が回文であったのは特に意味などはなく、単に我々が回文というジャンルを選んで作り続けてきたという由来があるだけです。しかし先ほど列挙した多様な言葉遊びの中で比較すると、言葉遊びに専念しているわけではない人でも比較的馴染みやすく、作り手の工夫がわかりやすく、自分でも作れそう感もある……多面的に見ても取っ付きやすいジャンルだったのかなと思います。例えば、スレの住人にそれぞれの得意分野がある中で、私自身は回文よりアナグラムの方が得意なのですが、アナグラムはその性質上、連立する二つの文章がペアとなって一つの作品になるので、一文で完結する(ものによっては十文字足らずでも完成する)回文のほうが簡便ではあります。また、それが実際に言葉遊びとしての定義を満たしているかの確認も、引っくり返すだけの回文のほうが簡単というケースは多いと思います。

パズルとしての回文

ここまで述べてきた回文の面白さは、既に完成された回文に対して感じる面白さのことであり、ここではそれを「娯楽性」と位置付けます。それに対して、回文を制作する際の視点や、娯楽性のためではない、作り手の自己満足としてのマニアックな(独自性の強い?)亜種など、そういった側面を娯楽性に対して「パズル性」と呼ぶことにします。

雰囲気回文は「惜しい」からおいしい

回文を作っているとき、私の場合、脳内に急に浮かんだり連想ゲーム的に引き摺り出されてきたり、あるいは単に見掛けたりした単語などを、とにかく引っくり返しまくる粗製濫造タイムが来るときがあります。そのときにどうしても回文にできない、けど語感あるいは字面はかなり回文っぽいし残しておくか……という雰囲気回文が生まれます。

この雰囲気回文の娯楽性って、多分そこまでないと思います。娯楽性を感じるとしても、それは回文の作り方を経験的にある程度知っている人に限られるのではないかと思っています。厳密な回文であるという付加価値は持たないが、もうちょっとここが違ったら回文だったのになぁという惜しさがあり、その惜しさが共有される人々の間でならその味が共感されるという、一種の界隈性のある娯楽です。

なので雰囲気回文に親しんでいるわけではない人にとって、厳密な定義では回文ではないという文章は、語感が面白くても勢いがよくても字面が狂っていても、「実は回文である」という付加価値の恩恵に与れない「ただの文」です。ツイッターでは雰囲気回文という同様の名称で(低頻度ですが)散発的に惜しい回文が呟かれているようですが、まあ流行ることはないでしょう。

厳密な回文とは何か

では、そういった雰囲気回文が成り損ねてしまった「回文」の定義とは根本的に、具体的に何なのか。大文字や小文字は保持しなくてもいいのか長音は仮名に変換してもいいのか、ひらがなに書いたときに判定するのか発音で判定するのか、英字はどうするのかうんたらかんたら……

結論から言うと、厳密に定義する必要性自体がそもそも薄いので別にめちゃくちゃ意識しなくてもいいというのが持論です。回文を作るつもりでちゃんと作って、見る人がああ回文だなあと認識できればそれでよいのではということです。投げやりすぎる感じもしますが、実際回文なんて昔からある言葉遊びであり、最低限のルールは今更厳密に定義し直すまでもなく世間に知れ渡っています。

その最低限のルールといえば、「上から読んでも下から読んでも同じ」という明確でシンプルなものが一つあるだけなので、雰囲気回文のような「明らかに文字が前後で食い違っている」というケースや、明らかに文字が抜けているというケースでなければ、先述の大文字小文字の話などはほぼ表記ゆれのようなものだと思います。

ただ、特に制作時において自分がどのルールに則っているのかを把握するのは大事だというのも持論です。「SNS」という言葉を組み込むとき、それを「えすえぬえす」という読みとして扱うか、「SNS」という字面ごと扱うかによって、文字数も前後との接続も色々と変わってくるためです。あるいはそういったルールを同一回文内で統一することに重きを置く考え方もあります。厳密なルールを定義しないからこそ、作り手に丁寧さや機転が求められるところが、シンプルながら奥深くて魅力的だなあと感じるところです。

よりパズル性の高い亜種

ここからは厳密な回文というより、原初のシンプルな回文から拡張されたパズルとしての回文の話題です。

変数を用いた代入式回文

変数を用いて文字式の形態の回文を作り、変数に代入することで文意が宿るという回文です。一部の雰囲気回文がこれに該当することがあります。

「さらAたAらさ」
→Aに「われ」を代入
→「攫われた我らさ」
「AきできA」
→Aに「いぶす」を代入
→「指宿で木燻す」

文字が前後で食い違っているタイプの雰囲気回文は代入式回文に変換できます。

「チキンタツタ2つ探知機」
→「ちき」=Aを原文に代入
→「AんたつたふたつたんA」

変数の数を増やす、代入される文字列を長くするなど、拡張の余地がありますが、文全体における変数の貢献度が増すほどに回文っぽさが損なわれる傾向にあるため(指宿の例で既にかなり回文っぽくない)、良い落とし所を探りつつ作らないとただのパズルになります。

多項回文

これはかなり元も子もないです。部分的に見れば回文(文というよりは部分)になっているものを連続させるという回文です。

アイア+ンマン→アイアンマン(二項回文)

最終的な文意のために前後あるいは複数の部分で区切って、区切られた部分をそれぞれ独立した回文にする、とでも説明できるでしょうか。ただ、項の文字数に制限を加えなければ、この世界に存在する全ての文章が「1文字の項を文の文字数分だけ連ねたn項回文」ということになってかなり収拾がつかなくなります。項の文字数が10文字弱くらい、項自体が3つくらいあるものであれば、割とおもしろさも出せつつパズル性も高いものができそうな気はします。作ったことはありませんが……。

また、多項回文というネーミングは回文と同じ言葉遊びの一種であるゴママヨについての論説から拝借しました。ゴママヨ、意外と身近に溢れている言葉遊びで面白いので、興味のある方はぜひ。

※ゴママヨの参考文献: 【論説】ゴママヨおよびそれに付随するさまざまな現象の研究 - 0と1の間でティータイム - はてなブログ


おわりに

正直バズってうれしかったですわ(唐突なお嬢様)

自分で作った回文が全てではないどころか、実は私の作ったものはあんまり優秀賞には入っていないのですが、「これはやっぱりすごいよな」と思う回文がスレの外からも同様に賞賛されているのを見るとめちゃくちゃ嬉しいし「わかる~~~」となりました。

あとは深夜にぽちぽち書いていたしょうもないツッコミのコメントが意外とウケててよかったです。記事中の最初の画像がサムネになる仕様で偶然デスマリア相関図が皆さんのTLを駆け巡ることになったり、面倒臭がらずノミネート作品を全て掲載したら意外とちゃんと読まれたり、色々なまぐれが良い方向に作用したと思います。(何も考えてなかったともいう)

う~んあとはなんか、個人サイトでやってるのでもうちょっとちゃんとしようと思いました。よくこんな得体の知れない独自ドメインのブログに来ましたね。アフィとかやってないし読み込みも高速だし(?)いいんじゃないでしょうか。みんなダークモード好きすぎかよと思っていたらサイトのデフォルト設定がダークモードだったので本記事の公開とともにライトモードにしておきます。各ページ右上の月(太陽)マークでモードの切り替えができます。それではお読みいただきありがとうございました。